あの頃の“お宝盤”探索路

元々、ヘヴィーなレンタルレコード・ユーザーだったわたしが、カセットボーイからレコードコレクターに転向するきっかけとなったのは、ディスコで覚えた曲がレンタル店になく、それをどうしても手に入れたくて輸入レコード店に足を踏み入れたことからでした。(当時、わたしと同じ道を辿った方も案外少なくないのでは?)

そんな駆け出しのレコードコレクターだった ’80年代、レコードディグが何より楽しかった時のどうでもいい回顧的話題をひとつ。


バブル絶頂期の1986~8年頃から、ディスコ系レコードの収集家達(勿論わたしも含)が それこそ血眼(オタっぽくていやな言葉ですね笑)になって探していた5タイトル。当時はすでにクラシック化してディスコでも人気。さらに、定番・人気ナンバーを中心にかかりまくる学生ダンパ(死語)隆盛の時流も拍車を掛けたように思います。(当時の都内学生ダンパ・チャートでも常に一位は「テレフォン・オペレーター」でしたね)

  • PETE SHELLEY – Telephone Operator [12″] (ピート・シェリー / テレフォン・オペレーター)
  • U-BAHN X – Young Hearts Of Europe [12″] (ウーバーンイクス / ヤング・ハーツ・オブ・ユーロ)
  • LISA – Sex Dance [12″] (リサ / セックス・ダンス)
  • ART ATTACK – Mandolay [12″] (アート・アタック / マンドレー)
  • D.D. SOUND – Café [LP] (D.D. サウンド / カフェ)

どれも今となってはなんてことのないレコードばかりですが、このリストに目を通したマニア歴数十年という同士なら分かるはず。当時は高嶺の花どころじゃなく、実際に数万から数十万というプレミア価格で取引されていた”ブツ”です。中古レコード店に足繁く通う日々にも疲れ果て、DJやハードコレクターに足許を見られつつ直接言い値で譲ってもらった人も居ることでしょう・・・ 当時は旧楽曲を積極的に取り上げるようなオムニバスCDも少なく、情報も希薄。 もちろんインターネットもYoutubeもない、そんな時代でした。

今もわたしの手元には、愛知県は名古屋のディスコ系レコード専門店が掲載した、’89年の雑誌広告窓(誌上オークション)が残っています。当時、D.D. サウンドのアルバムを必死に探していたわたしも迷わず電話をしました。 愛想の良い店主とおぼしきに「値段は8万円です。帯?それはないけど状態良いですよ!DJなら店の経費で落とせばいいじゃないですか?もちろん領収書切りますよ」と営業されました。さすがに学生身分でレコード一枚にその値段は手の出ない話でした。 因みにこの専門店はそのあとまもなくして”MEGA-MIX”と名を変え、’90年代のディスコ/クラブ系新譜レコード・シーンを牽引することになります。

そうそう忘れてはいけません。これらのレコードの高騰真っ只中、「テレフォン・オペレーター」と「セックス・ダンス」、そして「ヤング・ハーツ・オブ・ユーロ」は音源のない店のため、そして何よりマニアの渇きを癒すために国内DJリミックス・チーム“HYPERSONIC”が独自にカヴァーを作ったりもしましたが、 結局は逆効果。それによってより一層オリジナル盤への物欲が刺激され、プレミア相場上昇を手伝う結果になっただけでした。

そんなさなか、マニアの渇きもそろそろピークに達するであろう ’90年の7月。突然、日本中の好事家を狂喜させる大事変が訪れるのです。なんと、当時の国内ダンス・レコード供給の中心を担っていた輸入レコード店CISCOがオリジナルレーベルに働きかけて、「テレフォン・オペレーター」の正規ライセンスによる再発盤を切り、 立て続けに「セックス・ダンス」(’90年8月)、「ヤング・ハーツ ・オブ・ユーロ」(’90年10月)と次々にオリジナル音源の再発を敢行。価格高騰の波は一気に収束へと向かうことになったのです。

そしてさらに数年のち、東京は渋谷の専門店、MANHATTAN RECORDSがD.D. サウンドのLPをイタリア・プレスで正規再発。 そのちょっと前にはテイチクから国内盤CDも復刻され、それまで’幻の音源’だった16分に及ぶ「カフェ」フル・ヴァージョンが手の届くものになっていましたが、DJやコレクターにはまだまだアナログ・ソースの需要が圧倒的だったのもあって、黒盤での発売は大いに歓迎されたものです。 また一方では、’90年代半ばの空前のアナログ・ブームの中で国内ディーラーによるアメリカの現地買い付け盤が中古市場を潤わせ、アート・アタック「マンドレー」のUSオリジナル原盤あたりも積極的に輸入されたことで、引く手数多だった凄まじいまでの勢いは鎮火していったのでした。


さて余談ながら、わたしの入手顛末記と言えば・・・

「テレオペ」と「ヤング・ハーツ ~」はCISCOの再発盤で初GET、D.D. サウンドは、国内通販で遂に手に入れた一枚が、インスト・ヴァージョンのアメリカ盤という辛酸を舐めてから数年後、常連だった地元中古レコード店のオークションに参加し、数万円で帯付き国内盤を落札して入手。「セックス・ダンス」も、懇意にしている地元中古レコード店を通してアメリカのメールオーダーサービス経由でアメリカ原盤12インチを入手。「マンドレー」は、地元からちょっと離れたレンタル・レコード店でフランス盤を偶然見つけ、借りたまま「紛失した」と虚偽の申告で返却しないという、今だから言える確信犯的蛮行で手に入れました。

当時の若い情熱を注ぎ込んだ思い出のレコードたち・・・ レア盤としての価値はとっくになくなりましたが、 悲喜こもごもの記憶も一緒に、今もレコード棚の一角に眠る大切なコレクションです。「このまま死ぬまで手放さないんだろうなあ」なんて呟きつつ、この記事用に写真を撮るため引っ張り出した、二度と針を落とすこともないであろう青春の遺物を見つめるアラフィフの今日です。

⇒ Clubberz Records [クラバーズ・レコーズ]

マハラジャなあの頃

東京で人気のプレイスポット(死語)だったディスコティック:“マハラジャ” 麻布十番本店。バブル景気の活況期とも重なり、日本全国にその名を轟かせました。

マハラジャ本店

その地で’85年のオープニングから’87年末まで、チーフDJとして主に営業ラスト1時間を担当、黄金期のマハラジャ・サウンドを確立させたDJネーム“ヨサク”こと長谷川晃一郎氏がこちら
http://kh-r.jp/profile

氏こそが僕のダンスミュージック嗜好やDJ観に多大な影響を与えてくれた、真のプロフェッショナルDJでした。ヨサク氏がプレイした毎夜のラスト一時間強は、当時も今もすべての営業DJが見習うべき最高のお手本だったことに決して異論を認める気はありません。

そのセンス抜群の選曲眼はプロDJとして当然としても、2曲を同時掛けしてのクロスフェーダーミックス、つなぎのインパクトや客寄せのピンポイントで短く曲を混ぜるトリックプレイ、のちのマハラジャで御馴染みとなるサンプラーによる効果音のインサート等々、常に手抜きなしで圧巻の一語に尽きるDJテクニックを披露。オンエア曲ひとつをとっても、決してメインヴァージョンに拘らず、最もダンスフロアに映えるヴァージョンをチョイスして使う姿勢にも、フロアの空気を最高の状態にチューニングする”営業”DJとしてのプライドを感じずにいられませんでした。

そう、例えばフリースタイルのヒット・タイトル「Two Of Hearts」という曲。これは最初、アメリカのインディレーベルからリリースされ、好調なフロアアクションに目を付けたメジャーレーベル『ATLANTIC』が版権取得、すぐに再録音版がリリースされましたが、ファースト・ヴァージョンは洗練度に劣る分、アグレッシヴにエフェクト処理されたヴォーカル等、営業用途に使用するのに相性の良いアレンジが魅力でした。勿論、当時のマハラジャでプレイされていたのはこのヴァージョン。また、日本語カヴァーもヒットした「Cha Cha Cha」は出だしにインパクトのあるアメリカ盤オンリー・リミックス・ヴァージョンだけを徹底使用。その他、ハイエナジー・サウンドの大ヒット「Pistol In My Pocket」はインストの長い導入部を経て、ブレイク一閃メインコーラスに突入する“Dirty Harry Mix”を主に。さらにこの当時、毎夜のラストナンバーとして定番化していた「Telephone Operator」をその座から引き摺り下ろしたD.O.A.のメガヒット「Something In My House」は、最もメジャーな“U.S. Wipe-Out Mix”ではなく、セカンド・リミックス“Mortevicar Mix”がチョイスされ、締め括りの一曲として使われました。

その当時、どこのディスコでもヘヴィーローテされていたヒット曲でさえも、使うヴァージョンに妥協しない姿勢は、まさに一流の職人の姿でした。バブル景気真っ只中とは言え、マハラジャ本店の栄華隆盛はヨサク氏のDJプレイなくしては有り得なかったはず。

マハラジャ本店 DJブース

その後、ヨサク氏が離れたあとのマハラジャでは、よりサンプラーを多用したユーロビート・オンエア率が高くなり、アルティミックス、ホットトラックス等のDJ用リミックス盤が続々と届けられるようになった時期でもあり、 そうしたDJ用プログラム盤から出ているヒット曲は(一部例外はあれど)ほぼ全てそれで賄うという、悪く言えば安易なヴァージョン・チョイスが主流となっていきました。そして、それは同時に、それまで存在した”マハラジャ”ならでは、のスタイルやこだわりの消失でもありました。

そして’90年代半ば過ぎ、麻布本店は静かにクローズの時を迎えますが、その末期レギュラーDJ陣のプロ意識に欠けたあまりのお粗末を見るに、ヨサク氏のスピリッツが最後まで継承されなかったことも甚だ残念でなりません。

さらに、時は流れて2011年。東京は六本木に蘇ったマハラジャのオープニングDJとして復活、今もクリエイティヴな第一線で活動を続けるヨサク氏の今後の躍進にも大いに期待するところです。

⇒ Clubberz Records [クラバーズ・レコーズ]

追悼: 菅井えり(ERI)


2016年末、ディスコ族には「おもいがけない恋」で知られるミュージシャンの菅井えり(ERI)さんが天に召されました。ここに謹んでご冥福をお祈りします。

病気療養中と伺って以来、数十年ぶりに幾度となく針を落としていた1986年のデビュー・アルバム『SKIP!』、そしてセカンド・アルバムの『RING MY BELL』・・・
どちらも僕の若かりし頃の想い出が詰まったアルバムです。

Eri Original Albums

ファーストは彼女自身が大好きだったと言う、60’s.アメリカンオールディーズを下地に、“山達”風コーラスと“大瀧ナイアガラ”風アレンジが心地良い「ダンシング・シューズ」、「ON THE RADIO」を収録。さらに「恋はドーナツ・ショップで」「SUNSET STREET」「WITH LOVE」、そして「ロンリネス」といった洗練されたポップ・フィーリング満載の名盤です。(ちなみに彼女のデビューシングル(7″)は「ダンシング・シューズ」。前年に出た「おもいがけない恋」はあくまでプレ・デビュー盤といった位置付けのようです。)

セカンドは哀愁のメロディとコーラスに心癒される、僕にとっては30年変わらぬフェイヴァリット・バラッド「Stardust Paradise」、そして最近、“ライトメロウ”コンピにセレクトされたシティ・ポップ「最後のVacation」がいい。


透明で澄んだヴォーカル、そして彼女の作り出すピュアなメロディは、感傷的な気分で聴くにはちょっと涙腺への刺激が強すぎますが、今はあえて溢れる感情を抑えずに心の趣くがまま彼女に哀悼の誠を捧げたいと思う。

間違いなく僕の青春のワンシーンに刻み込まれた名曲/名シンガーに永遠の感謝を込めて・・・

合掌

⇒ Clubberz Records [クラバーズ・レコーズ]